近頃、「道」というものの歩み方について思いを巡らせることが多くなった。数ヶ月前、特に他にはなにもせずに、ひたすら家の周辺を散歩することだけを日課としていた。周囲の人から見ると、かなり異様な姿だっただろうと思う。毎日、ただ目的もなく2時間以上歩き、ただそのまま家路につくという日々。

なぜ自分がそんなことをしていたのか、当時の自分にもわからなかった。ただ、歩くことに決まっている、という感覚だけがあり、その感覚に導かれて、今日も歩くかぁ、と歩いていた。歩きたいわけでもなかった。面倒でもあった。けれど、歩かないわけにはいかない。腹の虫がおさまらないからだ。

道を歩き、様々なものを見た。道草や、樹々。車。中学生の登下校。花。街。道路。空。雲。鳥。虫。線路。…眼球に映り込むあらゆるものを、ただひたすらに見つめたり眺めたりした。見方を変えて、何度も何度も。同じものでも、見方を変え、日が変われば、異なるものになる。一つとして同じものはない。

あえて一週間毎日同じ時間帯に同じ道順を辿ることもあった。同じ道を辿るのは退屈なように思われるかもしれないが、そんなことはなく、同じ道を歩くたびに新たなものを見つけることになった。人間の目が、どれほど物を見ていないのか、視界が閉ざされているのかがよくわかった。

人間の目は、どうしても何かに焦点を合わせてしまう仕組みを持っている。試してみればわかるが、いま、あなたがいるその場所で、目を開き、なにかひとつのものや場所を見ることなく全体を見ること、どこにも焦点を合わせずになおしっかりと見ることがどれほど難しいことかわかると思う。

鴨長明はかつて「眺む」という言葉で人の「見ること」の深みを説明した。一枚の葉に囚われたら樹は見えない。一本の樹に囚われたら森は見えない。一つの森に囚われたら山は見えない。ミクロからマクロへの視界の移行は常に暫定的なものであり、その全体性を把握するには「眺む」という力を必要とする。

「見るともなく全体を見る。それが、「見る」ということだ。」と、井上雄彦の漫画「バガボンド」に登場する賢者 行雲流水の僧 沢庵和尚は武蔵にそう語るが、その心得は鴨長明の「眺む」に通ずるものだと僕は感得している。全体性を視覚するには、なにかに囚われてはいけないのだということ。

「眺む」の極致は、世界の存在の分節性を還元し、未分節状態へと誘う意識の心的作用を行う行ともなる。井筒俊彦の「意識と本質」にそのあたりは詳しいが、物事・存在の本質の喚起を行うことなく、目の前の物を、”何”という表象・名前で認識するのではなく、あくまで、”そこにあるように見る”こと。

一度、瞑想後に、その「眺む」の極致に到達したことがきっかけで、「見る」ことについて深く感得した。その時に見えた世界には、一なるものから分節されたそれぞれの存在と、分節される前の一なる存在と、名前の有ることと無いこととが、目の前に、沈黙・静寂と共に同時にあった。僕自身も同じように。

その境地では、自己なるものさえも、有/無 の同時性のなかにあった。色即是空空即是色とはこのことかと体得した瞬間だった。嬉しくも哀しくもなかった。ただ、いまここにあることだけが、途方もなく確かに感じられた。物事を「眺む」こと、認識の有/無もまた近似する極致ではないかと考えている。

そんなことを、いま、孤独な夢想者のようにただただ道を歩き続けた日々に想いを馳せながら、思う。そんな日々をいま心のなかで眺める。生きることもまた道を歩くことだろう。物理的な道を歩くなかで、生きることの道を歩く仕方を学ぼうとしていたのだろうといまは思う。見ることの仕方。眺め。

今日の昼間、老子の「タオ」を読みながら、改めてそんなことを考えていた。タオ。道。20代半ばまで、僕が歩みたいと願いながらどのように歩めばいいのかわからずにいた「道」、その在り方に、無我の散歩のなかで気づいていき、いま、老子の「道(タオ)」にとても親しみを感じている。先達。有難い。

タロットの歴史については多くの研究がなされているが、アントワーヌ・クール・ド・ジェブラン(1725-1784)による「エジプト起源説」というものがある。この説によると、タロットはエジプト語であり、「TAR」は「道」を意味し、「RO」は「王」を意味する。「王道」の意。ここにも「道」。

また、Aは教理、RO=ROSHはマーキュリー神〈ヘルメス神〉で、英知の神トートを表し、Tは冠詞で、T・A・ROSH、即ち、タロッシュ、トートの書を意味しているという。エジプト学ブームの火付け役となったタロットエジプト起源説。

生活圏の道を身体を以って歩くことと、その道すがら目にするものを見ることと、タロットカードで占いをすることと、僕の中ではどれも同じような心的作用のもとにあるように感じている。

共通項は、「痕跡」と「解読」、そして「眺む」こと。身体を以って物理的な道を歩くなかで己の身体と地面や大気との関係を知覚し、身体内部で生じる微細な運動の連帯を感得し、不調の兆候=「痕跡」を発見する。その「痕跡」を身体の流れのなかでときほぐす「眺め」、「解読」する。滞留を流す。

視覚では、道すがら出逢うものの一つ一つを「痕跡」としながら、全体性としての「気象」へと認識を拡張することもできるし、「痕跡」の集合体を「眺む」ことを通して、風景の全体性や気配を「解読」することもできるように感じる。

 

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