草木の一生

二年前の夏、長野の上高地を訪れた。前の晩降った雨が嘘のように、静かな小川と高い空の間を歩いた。水辺に草木が揺れていた。唐突に、「木になりたい」と漏らす当時の恋人の憧れがわかったような気持がした。

草木は、人を喜ばそうとはおもっていない。しかし、私にはただ風の吹く方向へ揺れる健やかな緑が眩しかった。伸びゆくままに手足を、こころを伸ばしてゆけたらどんなに良いか。ただただ羨ましかった。

なにかを成し遂げることって、本当に意味があるんだろうか、と考えるようになった。「成し遂げた」とおもうことのほとんどは、いわゆる「結果が出た」と、いうものだ。「結果が出た」ということの多くは、「たくさんの人、もしくは権威のある人に評価された」ということだ。日の目を見ない、宮沢賢治をおもう。『ツァラトゥストラ』を書き上げたときのニーチェをおもう。もし、彼らの本が死後、評価を受けていなかったとしたら、彼らはなにも成し遂げてはいないんだろうか。

よりよく生きるとは、生まれてくる衝動をとどめることなく育んでいくことなんじゃないか、と最近おもう。衝動、と書くとそれはとっても積極的な、能動的な、行動的なもののような感じがする。でも、なにもしない、という衝動もある。なにかを行うと同じくらい、なにかをしない、ということがその人自身にとって大きな価値をもたらすことがある。

なにかをしていないように見える人は、なにかをしない、ということをしている。選択し、行動する、ということは、一見自身が選んだことのように思えるけれど、それは草木が晴れの日には伸び、冬には草を落とすような、大きな自然の一部のうごきの一端である。

今日は春の嵐だ。雨と風をしのげる家で、黙ってやり過ごそうとおもう。草木には草木の一生が、わたしにはわたしの一生がある。

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