生きているってどういうことか、と聞かれたら、変わってゆくことと答えるだろう。わたしと同じ速度でなくとも移り変わっていくものを生き物としかおもえない。
そうなると、本はもちろん生き物だ。まさか文字が動くはずもなく、物質としての劣化のことだけではない。十年前に読んだ本が、同じ本だとはおもえないことは、誰にだってあるのだろう。小学校の教室があの頃と違うように。「お前が変わっているんだろう」と言われると、「その通りだよ」としか答えられないけれど、やっぱり本には息づくものがあると信じてやまない。
高円寺の古本市で買った『夢の逃亡』。青い万年筆で「猥褻」「猥褻」と書かれていた。私はその文字を愛した。
「じゃあ本と教室は同じなの?」と聞かれると「YES」とは言えない。あらゆるものが変わってゆくのに、一番に本が生ける道具だとおもってしまう。それは、わたしにとってはたまたま本であっただけで、ぬいぐるみに命があるとおもう人がいるように、車の声が聞こえるとバンパーを磨く人がいるように。
道具と呼ぶのもおこがましい。本が、急に呼んでくれるときがある、ずっと長い間、本棚に、図書館に、本屋さんに眠っていたのに「今よ」と突然開ける日が。
大学生の頃、そんな本との蜜月をはるか遠く忘れてねじこむように本を読んだ。彼らの気持ちは遠くて、ただ目が文字を素通りするだけだった。本をすらすら読める人が偉いのだとおもっていた。難しい本をたくさん読める人こそが、彼らに選ばれた人なのだ、と。
そうではなかった。静かに待ってくれている本たちは、わたしが変わるのを待っている。彼らの道と、わたしの道が交わるときに、ようやく一緒に歩ける日が来ることを、辛抱強く待ってくれている。