震える弱いアンテナ

ばたばたと値付けをしたり、お釣りを準備したり、どきどきしながら初出店の土曜日を待っている。
まさか、本当に古本屋さんをはじめられるとは、驚いている。

去年の今頃は、まだ東京で働いていた。三鷹のお家から東西線直通総武線に乗って、出勤していたのが、ずっとずっと昔のことのようだ。

「恵那や中津川の良いところはどこ?」
と、えなここの良雪さんに聞かれたときに
「山や空が綺麗なところと、人が少ないところ。」
と答えた。

人が多いというのも、人が少ないというのも、悪いことでもないし、良いことでもない。隣の人が全然知らない人という開放感を大阪や東京では味わっていたし、いつだって賑やかな吉祥寺も好きだった。それでも、東京にいるころのわたしを支えたのは、たくさんいる人たちや商業施設ではなくて、数人の友人や薄暗い小さなカフェ、井の頭公園、通勤電車や休日に読む本たちだった。

よしもとばなな「キッチン」を電車の中で開き、泣きながら通勤していた朝があった。そういえばよく総武線や東西線の電車の中で泣いていた。別に悲しいことがあるわけでもなく、日々が耐えられないほどつらいわけでもない。小さく積もる疲れを洗うように、電車で本を読みながらひとり泣くしかない朝や夜がたくさんあった。今こうやって書くと、とても変なOLだけれど、そうする以外の方法がわからなかった。

泣けることは幸福だ、と感じていた。コップに水がたまるように、ぎりぎりまでたまった何かを涙と一緒に出していた。人の話を聞いたり、嬉しいことがあっても、すぐに涙が出た。

人が少ない、ということは、他人から受け取る機会が少ない、ということだ。それは好意や優しさだけじゃなくて、電車の人身事故に舌打ちするサラリーマンのおじさんや、車内で吐いてしまう就活生らしき男性、人生訓を楽しそうにでも苦しそうに語るおじさま。わたしにはどうしようもない、とわかっていても、それらの事柄をなんでもないこととして、素通りできないところに弱さがあったのかもしれない。そういえば、茨木のり子「汲む」を何度も朗読していた。

 

汲む―Y・Yに―   茨木のり子

大人になるというのは
すれっからしになるということだと
思い込んでいた少女の頃
立居振舞の美しい
発音の正確な
素敵な女の人と会いました
そのひとは私の背のびを見すかしたように
なにげない話に言いました

初々しさが大切なの
人に対しても世の中に対しても
人を人とも思わなくなったとき
堕落が始まるのね 堕ちてゆくのを
隠そうとしても 隠せなくなった人を何人も見ました

私はどきんとし
そして深く悟りました

大人になってもどぎまぎしたっていいんだな
ぎこちない挨拶 醜く赤くなる
失語症 なめらかでないしぐさ
子どもの悪態にさえ傷ついてしまう
頼りない生牡蠣のような感受性
それらを鍛える必要は少しもなかったのだな
年老いても咲きたての薔薇 柔らかく
外にむかってひらかれるのこそ難しい
あらゆる仕事
すべてのいい仕事の核には
震える弱いアンテナが隠されている きっと……
わたくしもかつてのあの人と同じぐらいの年になりました
たちかえり
今もときどきその意味を
ひっそり汲むことがあるのです

「落ちこぼれ―茨木のり子詩集」より

 

そうか、弱くてもいいのか、なめらかでなくてもいいのか。そうして自分を鼓舞しながら、毎日を過ごしていた。

こちらに越してきて、そういうことはめっきり少なくなった。山や木はいつも静かで頼もしい。

人から受け取る物が少ない、と書いたけれど、越してきてから、人からもらった嬉しいこともたくさんあった。そんな人や自然とのゆるやかな循環を本を媒体につくっていけたらいいなあ、とおもう。

ただぼーとしててもいい場所。ひとりでも、友達でも家族でもゆっくりできる、草がぼーぼーのお庭のような、きちんと整っていなくても、その草木の下には豊かな土と水があるような、そんな庭文庫、今週土曜日、よかったら来てね。

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